昨日、「市民の声ねりま」会員の皆さんと日帰りでバス旅行を行いました。
36名もの方に参加いただきました。

市民の声ねりまが企画する旅行ですので、楽しむだけではなく、私たちの活動につながる何かを学ぶことも目的としています。今年は田中正造の足跡を辿るツアーを行いました。

田中正造は、明治時代の政治家で足尾銅山の鉱毒事件の際に天皇へ直訴した事が有名。もともと豊かな家に生まれましたが、全財産を人々に分け与え、死んだときにはお豆の袋一つ分の財産しか残っていなかったといわれています。

当時の日本、富国強兵方針のもと、銅の輸出が外貨獲得の重要な手段となっていました。
しかし、銅産業の成長は、精錬過程で発生する煙害の発生や重金属を含んだ排水による水質汚染や土壌汚染などの公害を生み出しました。

そして、水質汚染の影響を受けたのが今回訪問した谷中村、足尾銅山から100㎞も離れているのに、渡良瀬川の源流が汚染されてしまった結果、大変な被害を受けました。しかし、政府は問題を隠すために、治水工事という名目で村全体を水没させることに。そして、村人は村を離れざるを得ず、かなりの方が北海道開拓のために網走の近くの佐呂間町へと送られました。新天地での生活は過酷を極め、移住者の多くは元の土地へ帰ることを望みましたが、最終的に政府が非を認め土地を提供したのは1970年代になってからのことでした。

ツアーの中で最初に訪問したのが足尾銅山。操業を停止してから長い時間が経ち、たくさんの方が植林を行っているにも関わらず、今でも木が生えずに赤い山肌が覗いているのが印象的でした。そして、その後水没した村の跡地を訪問。そこには、田中正造が通った神社や共同墓地の跡が残っています。鳥居だった場所に、神社だったことを示す看板が立っている姿やたくさんの墓石が並んでいる姿を見て、巨大な権力によって、川底に沈められてしまった村の人たちの無念さが少しだけ感じられた気がします。

田中正造記念館で話を聞く中で実感したのが、これは過去の問題ではない、ということでした。当時、鉱毒が問題になり始めたころ、政府が川の水を分析。その結果は、全く問題ないとのこと。この結果に不信感を持った村民は独自に専門家に調査を依頼。そして、多量の重金属を発見したとのことです。

その後、住民たちは組織を作って反対活動を行おうとしましたが、足尾銅山の操業によって生活が成り立っている方も多く、地域が二分されてしまいます。反対とともに賛成の陳情も出され、絶対数だけで見ると賛成のほうが多かったとのことです。
一連の流れを見ていると、原発の問題とあまりにも似ていることに愕然。

田中正造の言葉、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」彼の人々に寄り添った姿勢に強く胸をうたれました。