LGBTについて

今日の新聞、バチカンが同性愛者を排除せず、受け入れるべきとの見解を打ち出した。画期的なニュース。 アルゼンチンに住むLGBTの友人から連絡が来た。「ようやく、胸を張って歩ける。」ラテンアメリカでは人口の大半がカトリック。そして、カトリックの教義を背景に、男は常に男でなければならない、そんな価値観が強く根付いている。「Los hombres no lloran (男は決っして泣いてはいけない)。」これが、男の子への最初の教育だ。そんな中、LGBTの方の多くは、カミングアウトすることができず、苦しんでいる。ラテンアメリカでの一番の侮辱語、それは「オカマ野郎!」である。そんな中で、カトリックの総本山、バチカンが同性愛を排除しないと打ち出したこと、あまりにも遅いが、それでも重要な前進だ。翻って日本。LGBTへの理解が進んでいるとはとても言えない。テレビでは、たくさんのLGBTの方が芸能人として活躍しているが、どちらかというと、笑いの対象として捉えられることが多く、正面からLGBTについて議論されることは少ない。私の友人にもLGBTの方は多いが、多くは会社で勤め続けるために、LGBTであることを隠している。こんな状況を改善するには、何よりも理解を深めることが重要であり、そのためにこそ地域から声をあげていきたい。

中村哲医師講演会

今日は市民の声ねりまでペシャワール会の中村哲医師の講演会を開催。中村先生はアフガニスタンに赴任した後、30年以上にわたり、医療のみならず、人々の根源的な課題を解決すべく灌漑事業などに力を注いでいる。 彼の眼から見た現在の日本。たくさんの示唆に富んでいた。 中村先生にとって、アフガニスタンでの31年は、ソ連の侵攻から始まる戦乱の時代。彼の言葉では、戦争は何万、何十万の方が犠牲になり、そこには憎しみしか残らない。そして、現在日本が参加しようとしている集団的自衛権、その言葉に騙されているだけで、結局は欧米列強の連合軍に加盟することに他ならないとのことだった。 戦争は一度始まったら必ず拡大し、作らなくてもいい敵を作る。現在の日本は、人が死ぬということの実感が薄い人が銃を扱う、そんな政治であることを憂いていた。 中村先生が何度も仰っていた「欲望と安全は両立しない」という言葉が今の日本を象徴している気がした。

2018-08-21T09:42:18+09:002014年9月5日|Tags: , |

今後の活動について

既にお知らせした方もいますが、来年(4月)の統一地方選挙、練馬区議会議員の予定候補として、活動を開始いたしました。 これまで、途上国における地域開発の専門家として世界21カ国で活動を行ってきました。 海外から日本を見る中で、今の日本には、集団的自衛権、憲法9条の改正、原発再稼働、難民を含む外国人やLGBTなどのマイノリティに対する差別、女性の社会進出と子育てなど、多くの課題が山積していることに気づきました。また、民主主義や言論の自由のために多くの若者が命を懸けている途上国に較べると、日本では若者の政治への無関心が深刻であると感じました。 こうした問題に対して、これまでの経験を活かし、少しでも地元から地域、地域から日本を変えていきたい、その想いから、政党には属さず、市民団体である「市民の声ねりま」の皆さんと活動を共にすることにしました。 市民の声ねりまの代表の池尻成二さんは、区議を3期務め、区長候補ともなりましたが、弱者によりそう地に足のついた活動をずっと続けられていて、まさに地域の声を代弁している方です。 地元の老人介護施設や障がいを持つ方の団体などでボランティア活動をする中で、現在の日本が抱える課題が実際にどのような形で地域に現れているか、少しずつですが具体的に見えてきた気がします。また、市民の声ねりまの支援者の皆さんの熱意や行動力から、日々刺激を受けています。 練馬はその人口の多さから、当選に必要な得票数が全国でも最も多い自治体の一つであり、政党に属さないのは非常に厳しい道ですが、自分の想いを実現するために全力を尽くしたいと考えています。

Canta Timor!

地元で上映された、東ティモール独立に関わるドキュメンタリー「Canta Timor」を鑑賞。 2002年にインドネシアからの独立を果たすまで、26年の闘争があり、その中でこれほど多くの人々が迫害、虐殺されていたということを初めて知った。 映画の中で、実際に家族を犠牲にした人が語った言葉「インドネシア軍に対して、怒りや憎しみは一切ない。ただ、あるのは悲しみだけだ。なぜなら、インドネシア軍も私たちもみな、大地の下の兄弟だから。」そして、「殺した兵士に対しては、ただ、息子に亡骸がどこにあるのか、それだけを教えて欲しい」と語った言葉。憎しみに対する報復ではなく「赦し」。これこそが本当の意味の強さである、ということを実感する。そして、今の日本に不足しているのがまさに他者に対する赦しなのではないか、と感じた。 また、インドネシア軍が東ティモールを弾圧している時代、インドネシア政府に対して最も金銭支援を行っていたのが日本だったという。そして日本人は東ティモールで産出される石油の恩恵を受けていた。映画の中で「知らない限り、人はいくらでも残酷になれる」とあったが、それは、現在も同じである。今もシリアやアチェ、パレスチナ、そして日本でも被災地では多くの方が苦しんでいる。しかし、自分を含め、それを自分のこととしてどれだけ感じていることができているのか。考えさせられる映画だった。 地域で活動する中で、今までは見えていなかった、或いは敢えて見ようとしなかった問題が最近、自分の中で少しずつ明らかになっている。地域が挙げる小さな声を形にして、そしてそこから地域を、社会を少しでも変える一助になりたい、そう感じている。

つくりっこの家

先日、地域で障がいを持つ人を支援する社会福祉法人「つくりっこの家」の活動に一日参加。つくりっこの実践する「障がいの有無を越えてわかちあい、支え合う関係をつくる」という活動の素晴らしさを実感した。 午前中は精神科病院内のカフェでの就業体験。患者さんをお客さんに、ウェイターとして20年ぶりに働く。つくりっこのメンバーの方にレジの打ち方から、サーブの仕方まで手取り足取り教えてもらう。なんと気のまわらない、役立たずの私。特に誰が「障がい」を持っているかは、一見わからない、というか全く気にならない。むしろ整理整頓がすごく上手だったり、気遣いが素晴らしかったり、勉強になる。 私も含めて、多くの人がどこかに生き辛さを抱えている現在の日本。 その根源には、自分の問題を人と共有できない、自分の中で抱えて生きざるを得ない、そんな問題があると思う。 つくりっこが実践する「障がいを持つひとと、「まだ」持たない人が支え合いながら、共に活動すること」、それ自体が一つの奇跡であり、こうした活動が拡大していけば、地域が、そして社会が少しずつ変わっていくのではないか、そんな可能性を感じた一日だった。そして、何よりも私自身が少し楽になった気がした一日だった。

国際交流サロン

今日は練馬区が主催する国際交流サロンへ出席。 月に1度、地域に住む外国籍住民と日本人との交流を促進するための会とのこと。 これまでの海外での援助活動を地元の練馬で還元できないか、というのが訪問の目的。 しかし、いい機会ではあるものの、もっと工夫できるんじゃないか、というのが率直な感想でした。 会場に着くと、自分で書いた名札を付けて、あとはひたすら自由に雑談。 好きな場所に座ってお話してください。と言われるも、そもそも私も含めてほとんどの方が初めて、何から始めていいのかわからない。 外国の方、日本の方、合計で20名くらいが参加していましたが、自己紹介やテーマに沿ったディスカッションなど、ファシリテーションがあればよくなるのに、勿体ないと思いました。

2018-08-21T09:42:19+09:002014年7月26日|Tags: , |
Go to Top