風立ちぬの感想
先日、妻と宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」を鑑賞。パッと見のストーリーは、「戦争に翻弄された、飛行機の設計士と結核を患う妻との愛の物語」。噂では反戦映画だと聞いていた。 二人とも観終わってしばし呆然。いったい何を描きたかったのか、よく分からず夜の11時から不毛な議論を開始。 結論。主人公である堀越二郎を使った圧倒的なエゴイズムの表現、そして風刺だ。 基本的に私は宮崎アニメが好きだ。理由はたくさんあるが、自立した女性が主人公で、世界を救うというのがかっこいい、そう思っていた。しかし今回は打って変わって逆。女性の描かれ方が旧態依然、物わかりのよい人形のような女性が、モーレツサラリーマンを支える。また、宮崎監督の言わずもがなの平和主義。 今まで人間による暴力の愚かさや自然の偉大さを描いてきたと思っていた。今回も反戦映画ということで、今の時代にちょうど良いと期待していたのだが、正直、最初はどうしてしまったんだろう?宮崎監督?と思った 二郎は美しい飛行機を作りたい、その一心で勉学と仕事に邁進をする。 妻は彼と生活するためだけに夫を追って、サナトリウムから出てくる。命を削って、薄化粧をして深夜まで夫の帰りを待つ。しかし家でも、二郎は結核で苦しむ妻の手を握りながら、その横でタバコを吸い、仕事を続ける。そんな彼女のことを顧みない二郎に対し、妻は毎晩癒しの言葉をかける。 日本が戦争に突き進んだ経緯を、客観的に描いている。そこは良いと思った。しかし、国民が飢えているなかで飛行機などの兵器の開発に多額の金を使うこと等に対し、幾度か登場人物から問題提起があるなかで、二郎は実質ほとんど無関心。 自分が「美しい」と思う飛行機を作ることを追求する。この非常さ、鈍感さ。自分の家族や社会の人々、弱い立場にある人々に対する想像力が圧倒的に欠けているように見える。そして、国家が暴走することに、あくまで自分は職人としてではあるが、間接的に加担していく。 終に試作機が空を飛んだ日、妻は美しい姿だけを記憶にとどめて欲しいと思い、一人サナトリウムに帰り、そこで亡くなる。二郎が他人を犠牲にして作った試作機はゼロ戦となり、大量殺人の道具となる。 そして、最後、夢の中で苦しむ二郎に対して、妻は「生きて!」と伝える。唐突。え、これだけ?ずいぶんあっさりとした「許しの言葉」。 きっとジブリファンのなかには今回の作品に違和感を持った人たちも沢山いるだろう。宮崎監督自身、実はすごい皮肉を込めて描いたのではないか。主人公に同感・同情するのではなく、むしろ、「いいのか?これで」と、そこを考えて欲しかったのではなかったか。やっと今日になってそういう結論が出て、とりあえず妻と納得。