区議会議員

【 アンネフランク の家の訪問】「私が私として生きることを、許して欲しい。」

オランダでの滞在、最初に訪問したのがアンネフランクの家。初めて「アンネフランクの日記」に出会ったのは小学校高学年の夏休み。自分と同世代の女の子がナチスに捕まって殺される恐怖を日々感じながら屋根裏で生活せざるを得なかったこと、そしてその中にあっても小説家になる夢や戦争が終わる希望を持ち続けていたこと。たまたまユダヤ人に生まれただけで迫害を受けることに、ものすごい衝撃を受けました。戦争が日常をどれだけ破壊するかを初めて知り、それが今の私の活動の原点にもなっています。 公開されているアンネの家は1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用したものです。外装は改装されていましたが、内部は本棚の後ろに隠された扉やそこに続く隠れ家などがそのまま再現されていました。お父さんの事務所の中に作られていたということで、外に音が漏れないよう朝8時半を過ぎると音を立てないよう声を潜め、トイレを流すことも儘ならなかったとのこと。一番印象的だったのは彼女の部屋の壁に貼られていた大好きな俳優などの写真の数々。日常の楽しみを思い出すことが彼女を支えていたのでしょう そしてもう一つ印象的だったのが自分の命を危険にさらしながらも、彼女たちを匿い続けた人々のことです。支援者の一人、ミープ・ヒースは「人間として当然のことをしただけ」と。 アンネは、これほど辛い環境にいながらも「たとえ嫌なことばかりでも、人間の本性はやっぱり「善」なのだということを私は今でも信じている。」と書いています。もし同じ環境に陥ったとしたら私は同じことをできるだろうか、と、改めて考えていました。 アンネの有名な言葉「わたしが私として生きる事を許してほしい。」、それは現在でも大きな課題として残っています。地域の中でもヘイトスピーチをはじめ、それぞれのあり方を否定するような言動が増えています。規模やレベルは違えど、改めて、自分の持ち場で差別に取り組まなければと思いました。

By |2020-01-08T14:29:50+09:002020年1月8日|Tags: , , , , , , , |【 アンネフランク の家の訪問】「私が私として生きることを、許して欲しい。」 はコメントを受け付けていません。

ぎっくり腰…

金曜から定例会が始まりました。今年最後の定例会、気合を入れて臨んだところ、初日の朝にぎっくり腰に…。 これまで何度か経験しましたが、今回が一番ハード。最初は、「なんだか腰が重いな…」というくらいだったのですが、議会で座っているとだんだんと脂汗が…。これはヤバい、と慌てて友人の田辺ちあきさんの鍼灸院に助けを求めます。区役所から診療所まで通常は5分程度、それが永遠の長さに感じます。自分がケガをして初めてわかるのですが、練馬もこんなに細かい段差が多いのですね。でも、エレベーターを待っていたら、知らない方から「大丈夫?」と声をかけられて「この薬は効くのよ!」と突然不思議な錠剤をいただけたり、皆さんのやさしさに触れることもできました。 その後、施術を受けて少し楽になり、なんとか家に到着。着いた瞬間、「パパ―、鬼ごっこしよー!!」と抱きついてくるのを「だめーーーー!」と鬼の形相で止めるわたし。あまりの迫力に固まる息子。「どうしたの??」と聞くので、ぎっくり腰について「英語では魔女の一撃っていうくらい痛いんだよ」説明。すると魔女の部分だけわかったらしく「こわいーーー、パパ死なないでね!!」と泣きそうになりながら、抱きついてくる。「ぬぬぬ」声にならないうめき声をあげながらも息子のやさしさにほっこりした私でした。しかし痛いです…

By |2018-12-01T12:15:51+09:002018年12月1日|Tags: , , , , |ぎっくり腰… はコメントを受け付けていません。

大泉で戦争を考える(8月12日)を前に

今度の日曜の「大泉で「戦争」を考える」を前に、様々な展示品が集まっています。今日お借りしたのは、戦時中の絵本や双六などのおもちゃの数々。「めんこ」では、国の秘密を探る悪者を防謀する、といって子ども達がスパイを探したり、双六の上りが「南京陥落」だったり、遊びの中にも戦争が当然のように含まれていることが目の当たりに。多くの展示があり、実際に手に触れられるものもありますので、ぜひお越し頂き、身近に感じていただけたらと思います。

By |2018-08-21T09:41:25+09:002018年8月9日|Tags: , , |大泉で戦争を考える(8月12日)を前に はコメントを受け付けていません。

東日本大震災から7年が経過して思うこと

東日本大震災から7年、練馬で行われた原発反対のデモに参加しました。 地震の発生した14時46分、皆さんと黙とうをささげながら、7年前のことを改めて思い出しました。当時はODAのコンサルをしていて、職場のあった東日本橋にいました。スーツに革靴のまま、7時間かけて大泉へ歩いて帰り、これからどうなるんだろう、と家族のことを考えていたら、すぐにミャンマーやウガンダから日本に難民として逃げてきた人たちが「東北に支援に行きたい。自分も同じような思いをしたからわかる」と次々と申し出て行動に移す姿に、私も何かしなければ、とハッとさせられました。 その後、ボランティアとして妻や外国人の仲間と石巻へと向かいました。 現地の光景、はっきり覚えています。津波によって破壊された瓦礫の山が広がり、それぞれの家の玄関だったところには、人形だったり、包丁だったり、様々な思い出の品が置かれていました。 現地での活動は、津波の被害を受けた家を壊すというものでした。担当した家は、前年に建てられたばかり、外国人と一緒の私たちに対して、所有者である奥さんが感情を殺しながら、この壁紙はどんなこだわりがあるとか、この床を選ぶのは大変だったとか、説明をしてくれた後に、ハンマーで全て叩き壊す。私も友人も涙を拭きながら作業をしていました。それからもう7年。 先日、「ダキシメルオモイ展」で、原発事故によって避難している方のご経験を伺いました。彼女は私と同年代、事故の後、お子さんと二人で練馬まで逃げてきて現在に至るそうです。事故によって仕事も失い、家族もバラバラになったとのこと。声を詰まらせながら「最近テレビでよく『311を忘れない』と言っているけど、できることならもう忘れたい。過去のものにできればどんなにいいか」と絞り出すように話していたのが印象的でした。 復興庁が2018年1月にまとめた震災による避難生活者の数は約7万5000人。この2年で10万人以上減りましたが、プレハブ型仮設住宅での生活を余儀なくされている被災者が約2万人いるとのこと、また、親戚、知人宅に身を寄せている避難者も約2万人に上るといわれています。こうした中、震災後の避難生活による体調悪化、自殺などによる「震災関連死」は、この2年で200人余り増えているとのことです。 一方で、昨年には「自主避難者」への住宅無償提供を打ち切るなど、被災者の方々は厳しい状況を余儀なくされています。練馬区でも、多くの避難者の方が生活しています。自治体として、しっかりと彼らの暮らしを支えていくことの必要性とともに、子ども達のためにも原発の無い日本を築いていくことが重要だと改めて感じました。

By |2018-08-21T09:41:27+09:002018年3月11日|Tags: , , , |東日本大震災から7年が経過して思うこと はコメントを受け付けていません。

2018年 お正月

2018年の年末年始、今年は例年より少し長く、3日ほど実家(佐倉)に帰省しました。去年に比べて息子も電車の中で泣かなくなった、それだけで帰省の際の肩の荷が下りた気がします。でも、甘えん坊なのは相変わらず。怖がりで人が多いところではいつも抱っこを求める息子。もう13㎏越え、とても抱っこはできない、ならば山岳部(高校時代です)で培った経験を!と今回はずっと肩車で移動したところ、到着する頃には肩だけでなく魂も抜けそうに…。でもじいじ、ばあばに会えてご機嫌な息子、凧揚げにも挑戦。「パパもっと高くまで揚げて!」と無邪気な瞳で訴える息子、全力疾走で凧を揚げようとする私。でもせっかく揚げたころには息子の関心は遥か彼方に…。ということで、一人でトーマスの凧揚げを満喫する私でした。 そして大泉学園に戻ると、帰省していた義兄の夫婦と食事会。お互いの子どもの成長に驚いたり、仕事や活動の内容を話したり。その合間に毎年恒例の年賀状書きが始まります。私たち議員は、区内在住の方に自分から年賀状を出すことは禁じられていて、いただいた年賀状に自筆でお返事する、ということが規則になっています。ですので、一枚一枚拝見して、それを一日がかりでお返事。とはいえ、息子は待ってくれないので「パパ、こっち来て!ぶー!」と腕を引かれながら、その合間に何とか書き上げます...。こんな感じでゆっくりできたとはとても言えませんでしたが、充実したお正月でした。明日からまた駅頭、頑張ります!

By |2018-08-21T09:41:28+09:002018年1月3日|Tags: , , |2018年 お正月 はコメントを受け付けていません。